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日本の仏教・主な宗派

805年に唐より帰ってきた伝教大師・最澄(さいちょう、767~822)が、比叡山延暦寺を開いたのが、日本の天台宗のはじまりです。法華経に基づいていますが、円、密、禅、戒の4宗を一つにして成立しました。法華経を中心に「人間は誰でも仏になれる因(仏性)を持っていて、縁にふれて努力すれば成仏することができる」と教えています。平安末期から鎌倉時代にかけて、浄土宗、浄土真宗、融通念仏宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗など現代につながる多くの宗派が誕生しました。それらの宗派の開祖である法然、親鸞、良忍、栄西、道元、日蓮は、はじめ比叡山に上がって天台宗を学びました。そこから新しい宗派を開いていきました。そういった意味では、天台宗は日本仏教の原点であり、ふるさとと言えます。

弘法大師・空海(774~835)が開祖です。空海は唐の長安に渡り、青龍寺で恵果阿闍梨から密教両部をうけ、ことごとく秘法を伝授されて帰国し、真言宗を開きました。嵯峨天皇に重用され、京都の東寺を賜り、また高野山を賜り金剛峰寺を創立しました。本山は高野山金剛峰寺です。本尊は宇宙の本体であり絶対の真理である大日如来です。大日如来の真の言葉を、体、口、心で実践(三密行)すれば、即身成仏できると教えています。空海は835年、高野山で入定(入寂)するまでの間、布教活動とともに福祉活動や灌漑池や橋などの土木社会事業を行いました。弘法大師伝説は、全国5,000ヶ所以上にあると言われていて、歴史上の空海の足跡をはるかに超えています。弘法大師が杖をついたら、泉が池や井戸になったという弘法水の伝説は、全国至る所にあります。大師伝説や「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」など大師にまつわることわざなどを通して江戸時代にはお大師さんとして人々に親しまれ、大師信仰が生まれるようになります。高野山は空海の入定の地として、大師信仰の中心地になりました。

1175年、法然によって開かれました。法然ははじめ比叡山に上り、次に南都(奈良)に学び諸宗の奥義を究めましたが満足できませんでした。中国の善導大師の観無量寿経疏の一文に触発されて、専修念仏を唱える浄土宗を開創して、比叡山を下りて、東山吉水に住み、念仏の教えを弘めました。当時、仏教が衰えると信じられていた末法の時代にはひたすら阿弥陀仏の御名を称えることによって、極楽浄土に往生できるという教えを説きました。専ら阿弥陀仏に救いを求め易しい道を選ぶ他力易行としての念仏は、愚人、悪人こそ救われると説きました。当時、現世で悲惨な境遇にあり来世でも救いが無いと思われていた民衆に大いなる希望を与えました。法然のまわりには貴族から遊女まで、さまざまな人々が集まりました。既成の宗派から伝統的な仏教を否定するものとして批判の声があがり、法然は四国讃岐に流罪に処せられますが、その地でも布教を続けました。浄土宗の本尊は阿弥陀如来で、本山は知恩院です。

浄土真宗の宗祖は親鸞(1173~1262)です。親鸞は初め比叡山で修行に励みましたが、29歳の時、聖徳太子が夢に出てきてお告げがあり、法然の下に参じたといわれています。やがて法然の高弟の一人となり、法然が四国流罪とされたときには越後流罪になりました。その後、関東で教えを弘め、晩年には家族とともに京都に戻りました。親鸞は、法然の提唱した浄土門の念仏の教えこそ真実の教え(=浄土真宗)であると考えました。念仏を唱えれば誰でも極楽往生できると教え、妻帯も仏道を妨げないとしました。90歳の高齢で亡くなると、大谷の地にご遺骨を安置する大谷廟堂(本願寺)が建てられました。親鸞の死後、教団は次第に衰微しますが、八世蓮如の時代に教団は再興を果たし、おおいに発展します。

【浄土真宗本願寺派】
浄土真宗は徳川家康の政策により、西本願寺(浄土真宗本願寺派)と東本願寺(真宗大谷派)にわかれます。浄土真宗本願寺派は、阿弥陀如来の本願を信じ、ひたすら念仏を唱えることによって、弥陀の廻向を受けて、浄土往生すると教えます。純粋他力の教えです。
【真宗大谷派】
12代教如が徳川家康によって、寺領を与えられ東本願寺を築いたのが真宗大谷派の起こりです。真宗大谷派は、弥陀の積善が廻向されて、それに乗って衆生が浄土に往生できるとする、絶対他力の教えです。念仏をもっぱらにして阿弥陀如来の本願を信じることにつとめます。

良忍(1072~1132)が開祖です。良忍ははじめ天台宗を修めましたが、比叡山を下り、46歳のときに阿弥陀如来より「自他融通の念仏」を授かり、融通念仏宗を開いたといわれています。 一人の念仏が万人の念仏に通じるという立場から、心のなかで称えるのではなく口で念仏を称えることを提唱しています。自他の念仏が相互に力を及ぼしあって浄土に往生すると説いています。大念佛寺を総本山としています。

臨済宗は中国の禅宗五家七派の一つをもとにしています。禅匠臨済義玄の禅風を伝える宗派です。日本では栄西(1141~1215)が宋より伝えたのがはじまりです。当時の鎌倉幕府の保護を受け、武家社会に多くの信者を得ました。江戸中期に白隠が出て、農民の間に弘め、禅の庶民化につとめ、中興の祖といわれています。臨済禅は武士階級に好まれ、水墨画、能、茶道など中世の文化に大きな影響を与えました。日常生活の一挙一動のなかに道の働きがあり、平常心こそ道とします。理想を求めず日常生活のなかにこそ道があると教えています。座禅を組んで精神統一の状態に入り、悟りを開くことを目的としています。その悟りの境地は、言葉によって説明することはできず、師と弟子の間で心から心へと伝えられる不立文字、教外別伝といわれています。

中国の禅を、道元(1200~1253)が入宋して伝えたものです。道元は初め、比叡山に上り修行し、その後、栄西にまみえて禅を修するようになりました。さらに宋に渡って禅宗諸師に遍参し、ついに天童山で長翁如浄に師事して、印可を受け帰国しました。曹洞宗の教えは、日常生活のなかに潜む仏心に目覚め、明るい社会づくりに努力し、また座禅をして心安らかな日々をおくることです。ひたすら座禅する只管打坐(しかんたざ)を重んじています。坐禅は仏のはたらきに他ならないからです。また、曹洞宗では、日常生活の微に入り細にわたって綿密な規定がなされています。道元の家風は、極めて厳格で、格調の高いものであり、一般に広まる性格のものではありませんでしたが、その門下の第四祖、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(1268~1325)が禅を大衆化し、現在の大教団の基礎を築きました。

江戸時代に成立した禅宗の一つです。中国・明の禅僧・隠元(1592~1673)によって、中国臨済宗の楊岐派がもたらされたのが、はじまりです。京都宇治の黄檗山万福寺を本山とします。その教えは、往生浄土や念仏を説く念禅一致ですが、あくまで禅一般の立場です。第14代住持・龍統禅師までは伝統的に中国から住職を招聘してきました。宗風は明時代の中国禅の特色である、華厳、天台、浄土などを反映した混淆禅の影響を伝えています。読経は、現在でも古い中国語の発音で行われており、これを黄檗唐音と言います。隠元の法孫に当たる鉄眼道光禅師は艱難辛苦の末に隠元のもたらした大蔵経を底本とした鉄眼版(黄檗版)一切経といわれる大蔵経を刊行します。これによって日本の仏教研究が飛躍的に向上したといわれています。また、鉄眼道光を中心に社会事業を通して民間の教化に努めたため、教団としての勢力も次第に拡大していきました。

日蓮宗は、言うまでもなく日蓮(1222~1282)が宗祖です。日蓮は比叡山に上って天台教学の諸学を学び、そのなかで法華経こそ仏教が衰えてきた末法の世に、人々を救うことができる正法だと考えました。1253年、故郷の安房清澄寺で南無妙法蓮華経と高唱したのが開宗とされています。釈迦牟尼仏にむかい南無妙法蓮華経の題目を唱えることで即身成仏して、理想の仏国土が実現すると説いています。鎌倉を中心に布教活動を展開し、幕府に対して国家の安泰のために法華経に帰依すべきだと訴えましたが聞き入れられず、伊豆、佐渡の二度の流刑にあいました。許されると身延(みのぶ)山に入りました。7年間ほどして病いを得て身延山を下り、常陸に療養に向かう途中、立ち寄った池上で示寂しました。本山は身延山久遠寺で、池上本門寺に宗務院を置いています。

日蓮の定めた六老僧の一人、日朗の流れをくむ宗派です。法華宗本門流、法華宗陣門流、,法華宗真門流、本門法華宗などがあります。派祖は法華宗本門流が日隆、法華宗真門流が日真で、ともに京都に妙顕寺を開いた日朗直弟の日像の系統です。法華宗陣門流の派祖は、日朗直弟の日印門下の日陣です。本門法華宗は、昭和26年に法華宗本門流から妙蓮寺(京都)が独立して誕生しました。

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